しまちゃんなりの小説の読み方

読了した小説を、ある観点から紹介していきます!そういう見方があったか!と思ってくれれば幸いです

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宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読了しました。

 

宇佐見りんさんは、現在21歳。作家としてはかなり若いのですが、宇佐見りんさんの代表的な作品、『かか』で第56回文藝賞を受賞、第33回三島由紀夫賞を受賞しました。文藝賞はかなり規模の大きい賞で、ほかにこの賞をとったことのある作家さんに、綿谷りささん、羽田圭介さんがいます。また三島由紀夫賞は最年少での受賞ということもあって、宇佐見りんさんは今最も期待されている作家さんだと言えます。

 

私が宇佐見りんさんを知ったのも、三島由紀夫賞の受賞によるものでした。「自分とほとんど歳が変わらないのに…」なんて尊敬の念を抱いてしまいます。作家さんを見た目で判断するのは良くないとは思いますが、写真を見て硬い文章を書くのかなと思っていましたが、全っっく違う。『かか』はかか弁というオリジナルの方便で進んでいく。『推し、燃ゆ』も「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」の文章から展開されていき、SNSという現代的な要素も多く含まれています。

 

今回私が取り上げたいのは、『推し、燃ゆ』です。正直、感動しかないのですが、なぜ感動したのか、ネタバレなしとネタバレありに分けていきます。

ネタバレなしから。

概要を話すと、主人公は女子高生で名前はあかり。あかりは、アイドルグループの「まざま座」に属している上野真幸を熱狂的に愛する。推しを推していることが自分にとっての生き甲斐で、推しを推している時は周りを忘れることができた。

しかし、現実はそう甘くはなかった。推しを推していることが幸せなのに、学校にいかなければいけない、仕事をしなければいけないなど、社会から与えられた使命を私はこなさなければいけない。お父さんもお母さんもそのことに苦しむ私のことはわかってくれない。勉強など推しを推すこと以外はうまくいかない私は、時間の流れと共に苦しんでいく。

推しもそうだったのではないかと私は思った。なぜなら、炎上したら社会的に良い面を下げて謝らなければいけない、だから自分の本心はわかってくれないと推しは感じているのではないかと私は思ったからである。推しに私は投影する。

しかし、推しは先に一歩進む。私は先に進む推しに対してどうやって生きていけばいいのか、私の後の人生はどうせればいいのか?

 

人間関係の描き方が好きです。平行線である私と推し。似たもの同士なのに決して交わることのない。それがファンとアイドルという形で描かれていて、現代的で、かつ適切だと思われます。

 

ここからはネタバレありです

私がこの作品を読んでいる時に持った違和感は「祖母が出てきたけど、どうしてなのだろう」です。この作品を最初から最後まで通してみると、

祖母登場(父の海外赴任に対して反対、父以外は日本に残るよう訴える姿が描かれる)→母は祖母を恨んでいる→祖母が亡くなる

という形なのです。起承転結で言うと、祖母の死は転にあたるので、後々大きな影響を与えるだろうと考えられるのですが、この作品におけるメインは「私と推し」なので、正直ミスかなと思いました。

しかし、祖母の死が主人公あかりの変化があることを読者気づかせるのだと私が気づいたときに、震え上がりました。

最後のシーンでは、推しはアイドルを辞めて一般人として過ごしていくようになるのですが、当然あかりはそんなことは受け入れられません。今までの生き甲斐が推しであって、彼女のアイデンティティが推しを推すことだったのですから。言ってしまったら推しを推すあかりの死です。

ではあかりは自殺するのか?そんなふうにはいきません。宇佐見さんはそんなことは望んでません。

皆さんは亡くなられた方の遺骨を拾い上げた経験はあるでしょうか?生きていた時はなんとも温かみのある何かで満たされた身体であったのに、焼かれた遺骨は、重いようでどこか軽く感じさせる、空っぽという感じが私はしました。

そのような遺骨は自分では拾い上げることはできないというのも悲しいですよね。死んだら自分の遺骨を拾うのは他人。

この作品では、祖母の死→遺骨を拾い納めるという形です。つまり、死=骨を拾うということになってます。

そのことを読者に意識させた上で最後のページです。

「私は、お骨を拾うように、綿棒を拾った」

と来ます。

ここまでくると、なるほど、ここで推しを推す私の死が現れ、次の人生に進もうとするのかと思い至らずにはいきませんでした。

今までの家族や社会といったしがらみを受け入れて、次に進む。そう思いました。そのために祖母が登場したのかと思うといやぁ笑って言ってしまいます笑

 

このような構造に私はハマってしまい、好きになってしまいまいました。

宇佐見さんはこのような考え方をする方なのでしょうか?人生をかけるほど大事なものが存在すれば、命は捨ててはいけない。多様な価値観をもつのも大切だと思っているのでしょうか。

 

読んで解決できていないこともあります。「推し」という呼び方と「上野真幸」という二つの言い方ですね。この使い分けは何を意識されて書いたのか、わたしにはわかりませんでした。わかる方、コメントいただきたいです。

 

今年1好きになれた作品でした。ブログに投稿するのもやめようかと思っていたら、まさかの書きたくなるような作品を読んでしまい、書いてしまいました。皆さんも一度手にとってみてほしいと思います。

流行・なんて・糞喰らえ・さ

坂口安吾さんの『白痴』、読了しました。

坂口安吾さんは、歴史的に有名な方ですが、中学や高校の教科書では滅多に出てこない作家さんです。文体の迫力性や感情の昂りが強い作家さんだからでしょうか(これは『白痴』から感じられたことなので、他の作品を読めば変わるかもしれませんし、主観的な考えなので正しいとは限りません。ただそう感じただけです)

『白痴』が書かれたのは、1946年。戦後直後となっています。生きることが難しい時代に書かれたことによって、坂口安吾さんの強い気持ちが、ひしひしと文章から感じられました。私が感じたことを述べていきたいと思います。

 

終始一貫して、これだと感じました。「流行を嫌う」です。

『白痴』の中でこういうフレーズがあります。「流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお手本を学んで時代の表現だと思い込んでいる。事実時代というものは只それだけの浅薄愚劣なものでもあり、日本二千年の歴史を覆すこの戦争と敗北が果して人間の真実に何の関係があったであろうか。」です。このフレーズからも流行を嫌っていることはよく分かります。当時は、戦後直後で、流行が今ほどあったとは言い難いと思います。坂口安吾さんは、戦前を意識したのではないでしょうか?戦前は、「国のため」といって自分の本心を隠し、多くの犠牲を払ってきました。民衆も戦争に勝つのだという風潮に流されて(意識的だろうが無意識的だろうが)働いていました。事実『白痴』のシーンでも見られます。爆弾が投下され人々は逃げるのですが、「私」と白痴の女性は、その人々と同じ方向に進みませんでした。水で浸した毛布に包まって火の海に飛び込んでいったのです。結果生き残ることになりました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というフレーズに一石を投じる形ですね。

では、ただ流行を嫌うだけなのか。それなら、坂口安吾さんの好き嫌いの問題であって、読者としては「あっそ」で終わります。

次があります。「自分の信念を貫く」ということです。

私は、ここでタイトルを回収しにきたなと感じました。「白痴」とは、重度の知的障害のことを指します。差別用語になっています(少なからずその傾向はある)。『白痴』の中で「俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。」とあります。ここからも人の考えに乗っかるのではなく自分の目で見て、素直に考えて生ていくことが大切だと読み取れます。

 

流行ってのは、私自身めんどくさいと感じます。たしかに経済を回す(服などを買わせることによって)ためには必要な手段ですね。でもそれで何か失ってしまっている気がしてならないのです。コンテンツとして今、YouTubeが流行っています。いつでも見れる、無料、また自分が動画を上げれば(条件はあるが)お金が入ってくる。非常にメリットの多いコンテンツだと思います。でも、YouTubeに飽きてしまいました。私にとって、時間潰しの道具だったのが、情報を得るためのツールになりました。なぜか?単純です。必要ないからです。チャンネル登録した人の動画を見ると、それに関連した動画が出てきます。しかし、それを連続させて再生回数を増やすYouTubeの考えを知れば、やめないと大事なものが奪われる(時間など)と感じるようになります。今の自分にとって優先事項が低いって思うから、YouTubeにドップリハマれないんです。

 

『白痴』が有名であるということは、今の時代に通ずるところがあると多くの人が感じたからだと思います。是非手に取って、坂口安吾さんの思いを感じとって貰えたら…なんて思います。

村上春樹さんの姿勢の変化

スプートニクの恋人』を読了しました。

この作品は1999年に書かれ、2001年に文庫として発行されました。爆発的に売れた『ノルウェイの森』に続く恋愛小説となっています(短編を除く)

ノルウェイの森』での書評でよく見かける言葉は、「デタッチメント」。つまり、社会に対してまっすぐ向き合っていかない、そのような姿が描かれていました。主人公は、大学の講義を非常にのんびりと受けたり、家事が起こっても逃げず、達観した様子で世界を眺めています。「傍観者」とも言えるかも知れません。

前回の『ねじまき鳥クロニクル』の時のブログでも書いたように、『ノルウェイの森』と『ねじまき鳥クロニクル』の間で、劇的な事件が生じました。「地下鉄サリン事件」と「東日本大震災」です。この事件から村上春樹さんは考え方を大きく変えました。劇的な事件によってどう考え方が変わったのか、恋愛小説という同ジャンルである『スプートニクの恋人』と『ノルウェイの森』を見比べていきたいと思います。

 

まず、はっきりと違う点は、恋人が近ずいてくるか、離れていくかだと思います。『ノルウェイの森』は緑が積極的に「私」に働きかけてきます。しかし、『スプートニクの恋人』は、すみれを追い続けます。すみれは「私」に好意は抱いています。しかし、そこに性的な興奮はうまれていない。恋人となり結婚と結びつけるには少し距離があるような感じです。「私」はその事を分かっているからこそ、すみれと共にいて苦悩する。『ノルウェイの森』が「デタッチメント」であるならば、『スプートニクの恋人』は、「コミットメント」(関わろうとする姿勢)と言うことができます。

では、この違いから、私はどう考えるか

私は、受動的なことはためにならないと思いました。村上春樹さんの大学時代は、闘争時代。安保条約の締結などから、大学生たちが政府に、社会に反抗し生きていた時代。何人かの学生が亡くなり、東大も入試が無くなるほどの過激さでした。村上春樹さん自身、激しい世の中を生きていくことに苦労していたのかもしれません。でなければ、第三者の目みたいな小説を書かないでしょう。だからいちいち社会に関わっていこうとする姿勢を見せる必要はなかった。『風の歌を聞け』(1979)の1フレーズ、「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」のように、高度経済成長期の副産物、つまり、社会を否定しています。いわば、「否定性」の時代だと言えます。

では、2000年付近ではどうか?多くの人が亡くなる凄惨な事件だけでなく、慢性的な不況に日本は陥ってました。1970年代の高度経済成長終末期とは、大きく変わった状況です。マイナスな面が目立つ2000年付近は、何か変わる必要がある時代でした。教育では、ゆとり教育の開始。能動的でないと前に進めない世界。村上春樹さんはその環境を感じとったのだと思いました。

 

村上春樹さんは、小説にテーマ性を強く持たせる作家さんだと思います。村上春樹さんのテーマはこれだけでないと思います。私はまだあまり気づけてないですが、読んで是非感じて欲しいと思います。

 

(最後に)

能動的なことを求めた『スプートニクの恋人』ですが、村上春樹さんは「デタッチメント」の姿勢も書かれてました。「私」の生徒(にんじん)がスーパーマーケットで万引きをしたシーンがあります。にんじんはなぜかスーパーマーケットの大事なロッカーの鍵も持っていました。そんな状況で「私」は、ポイッと捨ててしまいます。「どうせ大事な鍵ならスペアでもあるさ」と。

社会的なルールに基づくなら、返すべきでしょう。でも村上春樹さんはそうは書かなかった。そこに村上春樹さんの「デタッチメント」の姿勢が現れていると思います。

ちなみに、村上春樹さんはインタビューで「『私』がギリシャから帰ってきてからどうするかわからなかった。にんじんは一種の救済であった』と述べています。今回、にんじんという人物から、読むことはできませんでした。そういう視点が何か新たなテーマを生んでいるのかもしれません。

 

村上春樹にとっての社会規範場面

ねじまき鳥クロニクル』を読了しました。

この作品は、『ノルウェイの森』が爆発的に売れたあと、アメリカに逃亡した時に書かれた本です。

この作品が書かれた当時、日本では劇的な事件がありました。それは、「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」です。どちらの事件も、被害が大きく、日本を揺るがすものでした。

村上春樹さんはこの事件があって、日本に帰ってきます。この時、「社会規範を考えなくてはならない」と感じたそうです。ねじまき鳥クロニクルでは、その考え方が色濃く出ています。

 

まず、村上春樹作品の中で珍しい、「歴史」が出てきました。ねじまき鳥クロニクルでは、戦間期の暴力、権力など、かなりショックな場面が出てきます。また、人の遺伝、ある土地の伝承など、村上春樹さん自身が作り出した「歴史」があります。

多くの「歴史」が出てきましたが、なぜこの要素を入れようと、著者は思ったのでしょうか?

私が読んでみて感じたのは、「歴史は繰り返すが、昔から新たな未来に向けて向上することができる」ということを伝えたいのではないかということです。

主人公と似た人が、戦間期の記録から登場します。村上春樹さんは、主人公のメタファーとして、戦間期の似た人を出したのだと感じました。メタファーの主人公は、獣医で、軍の命令には逆らえない、ソ連軍が攻めてきているから死も近いという、権力と運命に圧迫された状況にいました。しかし、世間的に有名で、権力もある義兄に、主人公は反抗していきます。ただ権力、運命に振り回されるのではなく、信念を持って生きる(今回は妻を取り戻すという内容)。そのためならあらゆる手段を用いる覚悟である。そのように私は感じました。

運命は逆らえるものであると伝わってきました。私自身、そういう決まりだからと、スっと運命を受け入れてしまいます。そういう人は現代に多いと村上春樹さんは感じているのではないでしょうか。

 

テレビの場面もありました。義兄の権力によって、主人公は社会的に消えかけてしまいます。その中の描写で、「なぜテレビがすべて信用できるのか」と、書かれています。

権力が進出したものではないかと疑う気持ちはないのかと言われているように感じます。特に現代はそうでないかと思います。政府の権力がテレビ当局に進出している今、政府にとってまずい発言をすればテレビから消されます。また、政府の汚職を紛らわすため、芸能人のスキャンダルを話題にし、世論を激しくしないようにもしています。受動的に、無意識的にテレビの言うことを信じてしまっている私たちに、一石投げつけるような内容であったと思います。

 

村上春樹さんが伝えたかった「社会規範」はこれだけではないと思います。村上春樹さんが伝えたかったことは、是非読んでみて感じて欲しいと思います。

 

今回のブログを書く上で、加藤典洋さんの「村上春樹は、むずかしい」を参考にさせて頂きました。村上春樹作品のバックグラウンドを知ることができる本だと思います。村上春樹さんに興味のある方は是非読んで欲しいと、思います

小中高大学と何となく生きて、将来不安な方の為の本

『人生は20代で決まる TEDの名スピーカーが贈る「仕事・結婚・将来設計」講義』を今回読みました!

 

この本のテーマは、「30代、40代・・・をより良く過ごすためには、20代での準備が不可欠だ」

と、なってます。

タイトルにある、仕事、結婚の観点から、書いていこうと思います

 

①仕事

社会学者と経済学者は、20代での仕事が、人生全体で見たキャリアに、かなり影響すると考えています。

そこから、著者は、強いアイデンティティを持って、社会で働く人になるよう勧めています。

アイデンティティが弱いと、自分の方向性がなく、非正規雇用を転々としてしまいがちです。対して、アイデンティティが強いと、人生に対する方向がしっかりしており、社会に関わるようになるのです。

では、どうすれば強いアイデンティティを得ることができるのか?著者は、「ゆるい繋がり」を勧めています。人はそれぞれ、好きなものを持ってます。しかし、それを仕事にするのは難しい。それは、次に進む方向がないから。著者は、ゆるい繋がりが、自分たちに新たな道を開くと、科学的に述べています。軽くていい、なんかの縁で自分の目指す方向に進み、アイデンティティを強くするのだと、著者は考えています。

②結婚

今の日本の20代の方にとって結婚は、20代後半から30代前半というイメージが、あるのではないでしょうか?

著者はこの考え方に疑問を呈しています。この本の中では「20代の息子たち、親の面倒を見ることに、自分達の時間が奪われる」と悩む方の気持ちがあげられてました。これに対して著者は、

「20代半ばで産んでいたら、両方面倒を見ることはないし、子どもの面倒は、親に任せられる」と述べています。

つまり、遅い出産が自分の首を閉める結果になると述べているのです

他にも、成り行きの結婚(できちゃった婚など)に対しても、批判的です。

なぜなら、相手と相談して、将来設計を建ててから結婚していないからだと、著者は述べます。将来設計をしていないと、先程の遅い出産みたいな結果になり、離婚が起きやすくなると著者は考えています。

 

この本は、20代に贈る、最良の本だと思います。私は、「信頼できる友達が数人おれば幸せ」と考えてましたが、この考え方は、自分の将来を狭めているかもしれない、いや、狭めていると思わせます。

時代の風潮に流され、何となく生きる人達には、痛快通り越して激震とも言えるキズを与える1冊でした。

https://www.amazon.co.jp/人生は20代で決まる-メグ-ジェイ/dp/4152094680/ref=nodl_

失ったものを取り戻してからの第3のストーリー、どう歩む?

村上春樹さんの『東京奇譚集』読了しました。

 

この本は2005年に発行され、村上春樹さんの短編集の中で、かなりの人気を誇ってます。「奇譚」とは、珍しい話、不思議な話という意味で、今作品のテーマは、「不思議」と言えるでしょう。今作品は、5つの短編から成り立ってますが、死んだ息子らしき人が海辺で目撃されたり、腎臓の形をした石が勝手に動いてたり、猿に名前を奪われたり、不思議だらけです。その不思議さを読者に納得させる村上春樹さんの書き方には、畏敬の念を抱きます。

 

しかし、5つの短編には、もうひとつの共通点がありました。それは「失ったものを取り戻した後、その後を匂わせる」ということでした。5つのうち2つの短編を、この観点から紹介していきます(『品川猿』の方はネタバレなしになるよう書きました)

 

①『ハナレイ・ベイ』

この作品は、女性が主人公です。息子をハナレイ湾で亡くし、その後毎年ハナレイの町に訪れるようになる。ピアノが好きということもあって、至る所で弾き、良ければチップをもらう。ハナレイの町にいるある時、ノリと勢いの若者2人を助けることとなる。その2人から、息子に似た人を見かけたと言われる。

冒頭で「息子が亡くなる」というインパクトのある内容が来ます。夫(どうしようもなくだらしない奴)も亡くしていたので、独り身です。しかし、女性が悲しむ言葉などは見当たりません。つまり、息子があんまり好きでなかったのです。そのことは実際に述べられてます。ですが、息子らしき人の姿を見たという話を聞いて涙を流しました。やはり愛していたのだと、愛していたものは亡くなったのだと、受け止めるようになりました。その後、日本に帰ります。

日本に帰ってから、若者2人と会います。若者の恋愛に関して、生き生きした会話をします。

この女性にとっての第3のストーリーは、「愛」であると私は思います。

 

②『品川猿

私、大沢みずきはここ1年間で、自分の名前をよく忘れるようになった。外での仕事なので自分の名前を忘れてしまうことに非常に困った。ある日、品川区の広告紙を読むと、安い料金で専門のカウンセラーが個人相談してくれるという記事を発見する。私は行くことにした。そこでは色んなことを話した。夫についてや、高校の出来事・・。何度も行った。すると突然、原因が分かったとカウンセラーは言う。原因は・・・。

今作品は『東京奇譚集』の書き下ろし作品。つまり、目玉の短編と言えるでしょう。ここでの第3のストーリーは、「自分が歪めた現実、受け止めてどう生きるか」でしょう。主人公はずっとこう思ってました。「私は姉より恵まれてる」と。それもある視点からでは、まさにその通りであるとしか思えないのです。でも、原因は私にストレートに発言します。「恵まれてない」と。

確かに名前は、その人に対する“ラベル”かもしれません。しかし、名前は自分と共に生きてきたのだから、記憶がある。だから真実を受け止めることも大切だと言われているように感じました。

 

不思議には、何か強いパワーがあります。そのパワーをどのように受け止め、第3のストーリーを歩むかは、あなた次第なのではないでしょうか?

 

 

あなたはまっすぐ「綺麗なもの」を見れるか?

又吉直樹さんの『火花』、読了しました

 

この作品は芥川賞受賞作品で、私の視点からでは、完全に読み切れないと感じさせられました。純文学であるため、又吉直樹さん独特の文章のリズムについて行くことに苦労したからです。また、又吉直樹さんの人柄が文字に現れて、複雑になってます。

 

しかし、私がこの本を読み、心をギュッと握ってきたテーマは「純粋」でした。この視点から『火花』を紹介していきたいと思います

 

主人公である徳永は芸能人として東京で活躍しようとする。しかし、やはり漫才で売れることは難しく、安定しているとは言えない。そんな中、後の師匠となる神谷と出会う。神谷は、徳永から見て“純粋”だった。ただ感じたように生きる神谷に、徳永は魅力されていく。

 

自分が感じたように、つまり純粋に感じたように、行動に移すことができる人は少ないのではないでしょうか?例えば、夢に向かって地道に精進していける人。こういう人達は、目標を達成したいという強い気持ちから、行動に移していると思ってます。しかし、「三日坊主」という言葉があるように、人はどうしても怠けたくなってしまいます。特に今の時代、ネットが普及し、時間を潰すことなど、容易くなりました。そんな中で、夢に向かって走れる人は眩しく見えます。たとえ、その人がビッグタイトルを得れなくて苦しんでいるとしても、何故か畏敬の念を抱かずにはいられません。

 

私は、神谷さんはそのようなレベルで、行動を移していくのです。ただ八百屋であることが、漫才なんやという考え方をもったり、シリコンを体に埋め込むことなどします。芸能人でもここまでぶっ飛んだことができる人はいないでしょう。このような純粋さで行動する神谷さんは、眩しすぎます。

 

この作品は、又吉直樹さんの「漫才」が表れていて、読み応えのある作品だと感じました。純粋さによる眩しさによって、読者の心の純粋さを明らかにしていくこの作品は、芥川賞受賞に相当するものであると思いました。

 

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